やっぱり…というのがこのニュースを見て最初に思ったことでした。というのも、実は昨年末にパパウワを突然の悲劇が襲っていたのでした。昨年の12月24日にメンバーの一人リカルド・バティスタ・タラゴナ(右から二人目でリカルドの父親)が不慮の事故で突然この世を去ってしまったのです。皮肉にも新譜『Toca Madera』をリリースしてからパパウワは再始動、秋からはJazz Sí Clubというラバル地区にあるライブハウスで、毎週水曜日定期ライブが始まった矢先の出来事でした。その後、パパウワの動きがぱったり止まって…。
お久しぶりです。すっかり更新が滞ってしまってすいませんでした。私のライフワークはバルセロナから音楽と革命を追いかけることなのですが、5月の半ばに突如スペイン革命が始まってからというもの、そっちの動きについていくのでいっぱいいっぱいだったんです(スペインで進行中の革命について興味のある方は、私のもう一つのブログRamon Book Projectをご覧ください)。
コルネヤと言えばカタルーニャを代表するブルーカラーの労働者の街。奇しくもクラッシュと同年1976年に、この街でLa Banda Trapera del Rioラ・バンダ・トラペラ・デル・リオが生まれたことから、スペインのパンク発祥の地とも言われています。こちらが彼らの代表曲の一つ、集合住宅が建ち並ぶ衛生都市のひどい住環境を痛烈に批判した『Venid a las cloacas(下水道へようこそ)』です。
DusminguetsドゥスミンゲツからLa Troba Kung-Fúラ・トロバ・クンフーへとスタイルを変化させながらも、バルセロナの音楽シーンにおいて常に注目される存在であり続けるJoan Garrigaジョアン・ガリーガ。ツアー中ということで時間的に厳しいスケジュールの中、知る人ぞ知るバルセロナのバルEl Mariatchiエル・マリアッチの全面協力もあって、インタビューが実現しました!
ルンバっていうのは、元々オリジナル曲を作るんじゃなくて、すでにある曲をルンバにアレンジするっていうものだ。自分たちはビートルズが大好きだったから、「ビートルズをルンバでカバーしたらどうかなるか」って思って作ったのが、All My Lovingオール・マイ・ラヴィングっていう一番最初の曲。衣装は70年代の大きな襟のスーツにベルボトム、サングラスともみあげ。時代遅れだっていうのがわかって、敢えてそうしたんだ。だって、本当に冗談だったんだからね。ところが、予想に反してすごく売れちゃったんだよ。
オリンピックの後5年位の間ルンバは再び低迷期に入ったんだけど、下がり切って底を打った頃に、Ojos de Brujoになどメスティサヘの動きの中でルンバを評価する人たちが出て来た(メスティサへについてはこちらを参照ください)。
また、Manu Chaoマヌ・チャオが『La Rumba de Barcelonaラ・ルンバ・デ・バルセロナ』っていう曲を出したのもすごく大きいね。これでバルセロナにルンバがあることを知った人も多いからね。彼がバルセロナに引っ越してきたことで、ルンバがまたひとつ階段を上がったというか、新しいステージに入ったというところはある。
ガト・ペレスはシンガーソングライターとしては優秀な人だったけれど、商業的な面で成功するところまではいかなかった。一方で、マヌ・チャオは、すでに注目を浴びていたミュージシャンだったから、彼がルンバ・カタラーナを扱った影響力というのはすごく大きい。キューバ人じゃないけど、有名なライ・クーダがキューバのソンという音楽に興味を持って、Buena Vista Social Clubブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブを取り上げたら世界が注目したのと同じだね。